「あなたの幸せは何でしょうか?」
こう質問されたとき、果たしてどう答えるだろう。
もっとお金があれば、生活がもっと豊かであれば……。
つい、そのようなことを言ってしまいそうだ。
「目の前の現実ってひとつだけと思いがちでしょうけど、それは違います」
取材のなかで副島かよこさんは、そう静かに語る。
「目の前で起こっている出来事は同じでも、それをどう”認識”するかで”現実”が変わります。だから”現実”を変えたければ今の自分の”認識”を変えればいいんです。出来事を多角的に見ることで、幸せだと実感できるヒントを見つけることができます」
このお話を聞いた後、今の自分って「幸せなんだ」と思った。
それだけで、体も心も軽くなった気がした。
海外の異文化に惹かれて
副島さんは、現在フリーランスのライターとしての活動とともに、ボイジャータロットカードやアクセスバーズといったヒーリングセッションをするサロンを運営している。
ライターとしては、2020年から活動を開始、得意分野を心理学系、スピリチュアル系、占い系、取材対応を中心として、noteやアメブロで自分の思いを発信している。
落ち着いて丁寧にお話されるその口調からは、物腰の柔らかさの中に凛とした雰囲気が漂う。その一方で、海外の異文化に触れることがとても大好き、という副島さんは、子育てをしながら“国費”で海外留学をするという、とてもアクティブな実績も持つ。
「昔から、海外などの異文化に興味があって、異文化に触れることがとても大好きだったんです」
2018年に訪問したタイ・ワットパクナム寺院
その思いは今でも変わらない、という副島さんだが、何がきっかけとなってここまで大好きとなったのか、明確な理由はわからないという。
あえていうなら、生まれ育った徳島の故郷で出会った外国人の神父さんとの交流が、異文化に対しての興味を抱くきっかけだったかも、と副島さんは語る。地元の町で唯一の“外国人”といえる神父さんと仲良くなり、いろんな話をしたり、時には友達と一緒に旅行に連れていってもらったりしたという。
副島さんは、いま九州の佐賀県で夫と二人で暮らしているが、出身は徳島県。
おそらくご年配の方々の記憶にしかない話になるだろうが、かつて高校野球の春夏の甲子園大会で優勝3回、準優勝を2回という旋風を巻き起こした徳島県立池田高校がある町が故郷だ。
副島さんの異文化熱は、中学生のときに、海外の人と“文通”をするぐらいまでとなる。その先の進路も迷うことなく外国語学部のある北九州の大学を選び、そこで中国語を専攻する。
「英語は嫌いではなかったのですが、極めたいと思うほど好きではありませんでした。それよりも、中国語や韓国語の“響き”がとにかく好きだったので、そのなかでも中国語を選びました」
ときどき、中国語や韓国語のテレビドラマなどが放送されていたら、内容が分からずともその響きを聞きたいがために、つけっぱなしにすることもあった。
「前世は中国人に違いない、って真剣に思っています」
副島さんは軽やかに笑った。
絶対に後悔はしたくない!
大学を卒業した副島さんは、佐賀県にある国立大学に事務職員として就職する。当時の国立大学は法人化前であり国の行政機関の扱い。そこで働く事務職員も国家公務員であった。
そして、この佐賀の地で、佐賀出身だった大学時代のサークルの先輩と結婚、3人の子どもに恵まれる。
「公務員は、育児休暇などの制度も整っていて、働く環境としては本当に申し分なかったですね。でも仕事量も多く、残業もあってとても忙しかった」
仕事しながら、家事、子育てと、余白のないとても目まぐるしい日々を送る。
大学勤務時代は国際課に約10年所属。来日する多くの留学生と交流を図った。
そんななか、2009年にまたとない異文化に触れるチャンスが訪れる。
文部科学省が、全国の行政官3名を中国へ1年間派遣する行政官派遣プログラムを公募したのだ。
派遣先は中国のどの場所でも自由に選択できるというものだった。
このとき、長男が中学校1年生、次男小学校5年生、そして長女となる娘さん小学校1年生という年齢だった。3人の子どもたちも年頃であり、普通に考えたら、このプログラムに応募するにはかなり無理があるように思える。
「今でもこのときの自分を褒めてやりたい、って思っているんです(笑)」
副島さんは、そう振り返る。
3人の子どもがいるのに応募するといったら、間違いなく夫に反対されるに決まっている。だから言わないでおこう……、とはならなかった。
いまこのタイミングで応募しなかったら、絶対に後悔すると思った。
周りの環境がどうであれ、自分の気持ちは「行きたい」、「挑戦してみたい」。
もちろん、応募したからといって、それが確実に通るわけではない。数多くいる行政官の中でも対象となるのはわずか3名だ。そのような状況も後押しとなり、副島さんは、勇気を振り絞って自分の思いを夫にぶつける。
「ここで応募しなかったら、一生後悔するかもしれない。だから、応募だけでもさせて!」
この言葉の勢いに夫も同意。
副島さんはこのプログラムに応募する。
そして……、副島さんは見事に3名のうちの1人となった!
確率の低かったこのビッグ・チャンスを見事に掴んでしまった副島さんに対して、逆に夫も「行くな」とも言えなくなってしまった。
文部科学省が主導するプログラムであることから、現地での大学授業料と生活費は「中国国費」で賄われ、さらに、この留学は国立大学の仕事とは直接関係なかったが、同じ公務員としての業務にあたることから“出張扱い”となった。さすがに出張手当はつかなかったが、給料は毎月支払われた。
「だから、いわゆる“持ち出し”はまったくありませんでした(笑)」
家庭のなかでいろいろと話し合った結果、最終的には小学校1年の長女だけを連れて中国留学へ旅立った。
滞在地は、中国の首都北京を選んだ。
「やりたいことをやって、後悔はしたくない」
子どものことを考えて、自分の気持ちを抑え込んでいたら、ここまでのチャンスを掴むこともなかったはず。自分の思いを素直に貫いたら、然るべき結果と、いいような段取りとなることを教えてくれているような出来事にも感じる。
北京滞在時、小学校1年生の娘と雲南省へ旅行
こうして、副島さんは小学校1年の長女とともに1年間を北京で過ごし、予定通り翌2010年に帰国する。
そして、中国からの帰国後、副島さんのこれまでの価値観をくつがえす出来事が待ち受けていた。
幸せって、何??
帰国からほどなくして、長男が体調を崩した。
連れていった病院で検査したところ、栄養が足りないことが判明した。しかし、腑に落ちない。他の子どもたちと同じ食事をしているのに、なぜこの子だけ?
原因はまったくわからず、あちこちの病院をまわる。それでもはっきりしない。医師から「心の病気ではないですか?」とも言われ、心療内科のクリニックまで通った。
あれこれ奔走して、ようやくわかった病名は難病指定の病気だった。
小腸がずっと炎症を起こし、そのために栄養が吸収できないというものだった。診断がついたら治療方法もわかるだろうと思ったが、その期待も裏切られる。西洋医学では、入院して絶食し、点滴を打つという対処療法しかなかった。
副島さんのなかで、張っていた気持ちが一気に緩んだ。今まで、忙しくバタバタしながらであっても楽しさをきちんと味わっていたけど、何をやっても楽しくない、という気分に襲われた。
「子どもが病気になるまでは、子どもの人生って他の多くの人たちと同じように学校に行って、会社に勤めるもんだって勝手に思っていたんですね。だから、この病気にかかったとき、この子はもうそのような暮らしができないのかな、と思いました」
「そんな感じで、あれこれ悩みながら、周りを見まわしてみたら会社員じゃなくても、いろんな働き方もあるよなということに気がつくようになったんです」
この気づきをきっかけに、副島さんは「幸せって何だろう?」と真剣に考えるようになった。
本も、何冊も、何冊も読みあさった。
さんざん悩み、考え抜いていったなかで、副島さんは一つの考えに行き着く。
「幸せは、“外的条件”で決められるものではない」ということだった。
仕事があったら幸せ?
彼氏がいたら幸せ?
こうした”外的”なことを幸せ、というのであれば、これらが叶っていない人たちは不幸せなのか、ということになる。
本当にそうだろうか?
「そうではなくて、“今の状態が幸せである”と思えることが何よりも大切だということに行きつきました。幸せとは”なる”ものではなく、幸せで”ある”という状態です。そのためには、自分の外で何が起ころうとも、“自分は幸せなんだ”という覚悟が必要とも思っています」
「実際に、その覚悟を決めたら、幸せがずっと続いています。私にとって幸せは“Do”ではなくて、”Be”なんです」
幸せは、誰かのそれと比較するものでもないし、外側にあるものではない。
常に自分の中にあり、その状態をいう。
つまり、「自分が幸せだ!」と思った瞬間から人は幸せなのだ。
長男のこの出来事があった4年後、副島さんは国立大学を辞める。
もともとスピリチュアルが好きだったこともあり、仕事を辞める少し前に出会ったボイジャータロットカードの個人サロンを始めた。
仕事に対してどうこう、というものはなかった。ただ、仕事をしているときは必死で、他のことを考える余裕はなかった。ところが子どもが病気になって、いろいろなものを感じ、考えるようになり、そして自分自身が変わっていった。
「古い考え方や何事にも縛られず、自分のやりたいことをやっていこう」
後悔しない人生を歩む。
そう決めて、副島さんは新しい道の一歩を踏み出した。
誰だって、幸せになれる
「私は、いま自分がいつ死んでもいい、って思っています(笑)」
いまの自分が、本当に好きなこと、やりたいことをやれているからだ、と副島さんは清々しくキッパリと言った。
長男の病気がきっかけで、本当に悩み、いろんなことを考え抜いた。その経験を通して自分も変わっていった。
「そのときから、幸せの状態がずっと続いている」
副島さんはそう断言する。
長男の病気が判明した後、今度は一緒に北京へ留学した長女が不登校になってしまった。原因はわからない。高校1年の3学期から突然学校に行かなくなったのだ。
我が子が突然学校に行かなくなったら、おそらく多くの親たちは大いに悩んでしまうところだろう。
このとき、副島さんは視点を変えた。
家に娘さんがいる、ということを逆手にとって長女と一緒にいる時間を楽しむことにした。いろんな話をしたり、一緒にショッピングに出かけたりと、二人で楽しくとても充実した時間を送った、と副島さんは語る。
長女は、いま山口県の大学に進学している。高校には行かずとも大学受験する資格を取り、自らの道を選びしっかりと歩いている。
このときの様子を、副島さんはブログにまとめている。視点や気持ちを変えることで、目の前の事態がいかようにも変えられることが記されている。
また、長男も、病気が完治したわけではないが、いまは家庭を持ち、会社勤めをしながら月一回の定期検診と薬で日々を暮らし、次男も同じようにすでに家を出て暮らしている。
「自分が“不幸せだ”って思ったら、視野も一気に狭まり、“不幸せ”にしかなりません。そのことに気がついていない人が多いと思います」
目の前に起こっている事実は、ただの事実だ。
そこに意味をつけているのは、何を隠そう自分自身である。
「だから、多角的な視点を持つことがいかに大切か、だと思うんです。目の前の出来事をいろんな角度から見ていくことで“幸せ”って見つけられますから」
どんなに不幸せと思っていても、その出来事に対する認識を変えれば、状況は全く変わらずとも一瞬で世界が変わり幸せにもなれる。
これまでの自分の体験を通してそのことをサロンやライティングで伝えていきたい、と副島さんは静かに熱く語る。
自分を見失ったときの合言葉
副島さんは、いまライターの活動にウェイトを置き始めている。ライターとしてあらゆる分野に携わって記事を書いていくことが、とても楽しいからだ。
自分の知らない分野に出会うと、それこそ、図書館に出向いては関係する本を片っ端から借りてくるほど調べることもある。そうして、未知の世界を知ることに喜びを感じる。
「新しいものを学んだり、知ったりしていく過程がとても好きですね」という副島さん。考えれば、海外の異文化というのも、まさに未知の世界だ。これで、すべてのことがつながってくる。
2022年6月から参加したスバキリ一味でのライティングの仕事もまた、そんな副島さんの楽しさの一翼を担っている。
「どうやったら支援につながるのだろう? ということを考えながら書いていくのがとても楽しい」
スバキリ一味のプロデュースでクラウドファンディングプロジェクトを立ち上げた実のお姉さんの紹介がきっかけで参加した副島さんは、今までやったことがないプロジェクトのライティングを早速楽しんでいる。
2017年カンボジア・アンコールワット
さまざまな紆余曲折の中で、幸せのあり方を見つけ出し、それを実践してきた線上に「今」の幸せな状態がある。そのことを体験してきた副島さんが伝える言葉は、間違いなく多くの人の支えになっていくだろう。
「幸せは、外的なものではなく、そう思う自分の状態」
取材を終えて、この言葉が余韻として長く残った。日常のバタバタに飲まれてしまって、つい余裕がなくなっていることに気づく。その状態のことを少し忘れて、ふと感じてみる。自分も好きなことをしている。「あ、幸せだ」。そう思った。
自分を見失いかけたとき、この言葉が、本来の立ち位置に自分を引き戻してくれる。
最強の合言葉だ。
取材・執筆:白銀肇
《大好きな中国について》
《副島さんが発信しているnote&アメブロ》
下記は、副島さんが幸せについて考えたときに読んだ印象に残った本の数々です。
ご興味があれば、ぜひ!
『新版 すべては「前向き質問」でうまくいく 質問思考の技術/クエスチョン・シンキング』
『嫌われる勇気』
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』
『「人生苦闘ゲーム」からの抜け出し方 ―すべてが「大丈夫」になる10週間のセルフ・セッション』
『いま、目覚めゆくあなたへ–本当の自分、本当の幸せに出会うとき』