あらゆる体験を武器にして、人生のステージを創り彩る

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「他のみなさんのような素敵なエピソードがないので、私なんかでよいのかとちょっと尻込みしてしまいますが……」

週刊スバキリ一味の取材依頼を申し入れしたとき、西坂夏代さんからはそのような言葉が返ってきた。

「人に語れるようなエピソードはない」

取材をお願いしたとき、多くの人がそう語る。そして、実際に取材したら素敵なエピソードが実は満載。これがもう定番のような流れだと感じる。

西坂さんと取材日を決めるやり取りをしつつ、取材に先立って経歴の打診をあらかじめお願いをした。その数日後、経歴内容の返信が届いた。

そこにはネタの宝庫といわんばかりの内容が綴られていた。思わず「どこにエピソードがないねん!」 とツッコミたくなるぐらいだ。

「人は、誰に語っても遜色のないエピソードを必ず持っている」

西坂さんのお話をさらに伺い、このことを間違いなく確信した。

「閉業」という波を乗り越えて

西坂夏代さん、ここからはニックネームである“おしんさん”と呼ばせていただこう。

おしんさんは、2022年9月に「Ferrules Black(フェルールズ・ブラック)」という屋号で個人事業を立ち上げたばかり。クラウドファンディング・プロデュース集団でのライターの他、ITも製造業もわかる技術系ライター、制御盤から生まれた配線アート&玩具「ケブラッチョ」の製造販売を主な事業としている。

Ferrules Black Nishisaka Kayo
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https://cablacho.com/

それまでは、夫である義時(よしとき)さんとともに五色電機株式会社という制御盤を製作する会社を夫婦二人三脚で営んでいた。

制御盤とは、機械を能率よく運転させるために機器類を集約した設備のことで、設備の中でとくに重要なセクションだ。

「営んでいた」という過去形の言葉で表現している通り、残念ながら2022年8月に五色電機株式会社は「閉業」することとなってしまった。

2020年初頭より蔓延し始めた新型コロナウィルス感染症。これが引き金となり、2年というタイムラグを経てその影響が及んできたことが大きな原因だ。

もちろんコロナ禍だけではない。その間に起こったウクライナ紛争、上海ロックダウンの物流大混乱などによる、自動車業界、機械設備業界で起こった部品調達の逼迫(ひっぱく)なども重なっている。

「“閉業”ということは経営的には“失敗”ですけど、この選択には本当に自分たちの力が及ばないところでの影響が大きくて……。悔しいけれどやむを得なかったですね。“倒産”という形になると、それこそお付き合いしているお客様にご迷惑がかかるので、“閉業”という道を選びました」

倒産と閉業。

いずれも会社経営の行き詰まりだが、その流れには大きな違いがある。

倒産とは、文字どおり資金繰りなどが滞り会社が倒れること。企業としては、できる限り精一杯の手をぎりぎりまで尽くしながらも、ついにはどうしようもなくなり破産手続きとなっていく。お客様や仕入れ先にとっては突然の通達となることが多い。

一方で、閉業も経営の行き詰まりには違いないのだが、破産という最悪事態を招く前に自らの手で事業を整理し、たたんでいく。周りに事情を説明し、納得していただき、事業を自ら整理していくという点では大きく違う。

同じ事象でも、そこにはエネルギーの大きな違いを感じる。自らたたむということは、その先にある未知への世界に覚悟を持って一歩を踏み込む、という前向きさを感じる。

この五色電機時代のおしんさん夫婦の奮闘、どういう思いで閉業したのか。この体験で学んだこと、そして伝えたいことについては、自著『コロナ禍で令和4年に閉業した会社の話:小さな制御盤屋の場合』に詳しく著されている。ぜひ一読してほしい。

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この閉業の手続きがようやく落ち着いた同年9月に、おしんさんは「Ferrules Black」を立ち上げ、新たに活動を開始した。社長であった義時さんも、五色電機時代の得意先様などに出向き、個人で制御盤製作を請け負う仕事をしている。

閉業後もこのように得意先との付き合いが続いているというところに、五色電機時代の対応や、義時さんの人柄や技術が買われていることがはっきりとうかがえる。

「色々ありましたけど、今は今で軽くなった気持ちがありますね。安定した仕事がなくなったということでの不安は確かにありますけど、それ以上にこれから何が起こるのかという楽しみも感じています」

持ち前の明るい笑顔で語るおしんさんの目は、もう過去には向いていない。

とにかく表現することが好き

「幼少の頃になりたかったのは“画家”でした。でも、小学校一年生のときに、当時大手だった電機メーカーに勤めていた父親から与えてもらった自作パソコンに夢中になりました。パソコンを触り倒しながら、“ホームページビルダー”で家族のHP(ホームページ)を作ったりして遊んでいました」

小さい頃からとても自我が強かった

そして、HP作り夢中になった少女は、やがて、ノンコードでは飽き足らず、HTML/CSSといったプログラム言語を独学で学び、Webサイト作りにハマっていく。

この一方で、中学校時代には「リコーダー」にもハマる。マルチトラックレコーダーという多重録音ができる機器を自分で購入し、一人で四重奏を録音していたというから、そのハマり方もかなり徹底している。

画家、HPづくり、リコーダー……。

このハマっていったものたちは、おしさんの中でどういうつながりがあるのだろうか。その共通項が見い出しにくかった。でも、おしんさんのこの一言で、すべて合点がいく。

「とにかく、何か“自分を表現できるもの”が、好きだったんですよね。リコーダーもたまたま身近にあっただけなんです、でも、やってみたら面白くなっちゃって」

「バッハやヘンデルが活躍していた時代には、リコーダーも今のサックスやトランペットのような花形楽器だったんです」と、おしんさんは教えてくれた。

自分を表現することができるものは、なんにでも惹かれ「自分の内に秘めたエネルギーを出さずにはいられない」、そんな子だった。

幼少の頃から自我も強く、どちらかというと「ガキ大将」タイプだったというおしんさん。小学生の頃から「代表」と名のつくものは何でもやり、白黒はっきりさせていく気質でもあった。だから、誰かとつるむというよりは一匹狼なところも多かった、と笑う。

「でも、その方が、気持ちが楽なんです。だから、男の子が多い高専時代は本当に気楽でしたねー」と清々しい。

パソコンにハマり、リコーダーにハマった少女、おしんさんは、父親の転勤と共に大阪に移り住み、5年制の工業高等専門学校へと進学した。男子ばかりでもあったことから、人づきあいに変に気を使うことなく、吹奏楽へとハマり、トロンボーン奏者、そして指揮者ともなる。

ハードな会社員時代、培われていく新しい能力

高専を卒業したおしんさんは、ネットワークインテグレーターの企業に就職する。

ネットワークインテグレーターとは、WAN、LAN等のネットワークインフラのコンサルティングや、そのインフラの設計、運用、保守を提供する情報通信企業だ。

2010年に就職し以後2019年まで、おしんさんはこのネットワークインテグレータの企業に勤め続けた。そして、この企業での職務経験がライティングへの道を開かせたという。

会社員時代のおしんさん。ハードな日々での対応が才能を培い、五色電機時代に開花する。

きっかけは、某大手通信業者の光回線サービスの担うネットワーク機器の専属保守サービスを務めたことからだ。

保守サービスとは、不具合が出た時の担当窓口だ。自社が納めた製品の故障原因が、ただの故障なのか、あるいはソフトウェアの不具合なのか、その根拠をお客様に説明しなくてはならない。何せ、相手は大手通信業者だ。トラブルに見舞われると、即時対応、説明がその日中に求められるという非常に過酷な環境だった。

「このときに相手先がしっかりと理解できるように、わかりやすい文章にしたり、資料を作ったりしたことで、説明能力がかなり磨かれましたね。このおかげで文章力も身につきました(笑)」

だが、相変わらず残業も多く、忙しい日々は続く。周りの人の中にはそんなプレッシャーに耐えきれず会社を辞めたり、休職したりしていった。

とはいえブラック企業ということではなかった。会社自体は残業した分の給与を払い、福利厚生面のサポートも厚いしっかりとした企業だった。そこに新卒ブランドで入ることができたこと、辞める勇気もなかったことから、おしんさんはハードな日々でもそのまま働き続けた。

五色電機株式会社という制御盤を作る小さな会社に出会うまでは。

五色電機と制御盤業界を元気にしたい!

2015年、おしんさんは現在の夫である義時さんと出会う。その翌年、自らの仕事の関係上まとめて育児休暇を取りたかったことから、計画的に年子で2児を出産する。

義時さんは、もともと五色電機とは別の会社で制御盤の設計・製作といった仕事をしていた。義時さんが五色電機と関わり合うきっかけとなったのは知人の紹介だった。そして、このご縁から、結果として親族に後継者がいなかった五色電機の事業を継承する流れとなっていく。これが2017年のことだった。

ここで、もう一度リマインドしておこう。詳しいくだりを知りたい方は、あらためておしんさんが自ら著した電子書籍をぜひご一読を!(以上、広告)。

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五色電機の事業継承のことを義時さんから相談を受けたとき、おしんさんの出した答えは「やればいいじゃない」だった。

滅多にない機会、何より面白そう、という思いが先に立った。

「振り返ってみれば、かなり無責任なことを言っていますよね〜」とおしんさんは軽やかに笑う。

でも、「”会社経営”も自己表現の一つの形」と思ったのも事実だ。常に「自分を表現したい」という気持ちと、「やってみたいと思うとやらずにはおれなくなる」という好奇心が反応して出てきた言葉でもあった。

当時の義時さんにとって、おそらくはこれほどまでに心強い言葉はなかったのではないだろうか。何せまたとない起業のチャンス。得意先は一から探す必要はあったにせよ、工場もあり設備もすべて事前に整っているのだ。おしんさんに相談はしたものの、おそらくやりたい気持ちはあっただろう。おしんさんの言葉は、そんな義時さんの背中をグイッと押した。

翌年、育児休暇が終わったおしんさんは、現職に復帰したが1年ほどのち、義時さんが社長となった五色電機株式会社に転職する。ここから夫婦二人三脚で会社を動かしていく。

夫・義時さんと

そして、ここからネットワークインテグレーター時代に培ったおしんさんの才能も、どんどん発揮されていくこととなる。

制御盤業界のクローズドな環境で、高齢化が進んでいる事態に危機感を覚えたおしんさんは、「業界外の人にも知ってもらい、楽しんでもらう」ことを念頭に、会社のWebサイト製作や、SNS(Instagram)による宣伝活動を始めていく。

積極的な広報活動を展開していくために「わいざんオンラインサロン」にも入った。ここで、小西光治さん筆頭に、通称ちびぃさん、よらさん、といったスバキリ一味メンバーと出会う。このときの縁が、後に立ち上げた個人事業活動にもつながっていく。

とにかく、五色電機に転職したおしんさん。その仕事は、忙しかった。

・広報担当SNS係
・自社HP製作とメンテナンス
・ISO9001に準拠した品質マニュアル作成
・小規模事業者持続化補助金の書類作成
・総務、経理、など一般事務

夫の制御盤製作を手伝いながら、プラスしてこれらの業務をもこなした。

こうしたなか、宣伝活動の効果が徐々に頭角を表していく。

五色電機が「ちょっと面白い会社」として認知が広まっていったのだ。それこそ「制御盤 大阪」のワードでGoogle検索すると、五色電機が1ページ目に表示されるまでにもなった。

https://goshiki-denki.co.jp/?fbclid=IwAR0W9JdFwSXCQNnbWi2vZIu_Ag1g9BlWXagkU0JjPQrKaUZUTIhTkoei5Bc

↑Google検索で上位トップに躍り出ていた五色電機のWebサイト

また、類似業界の方々からWebサイトの作成や、ライティングの依頼といった仕事も入ってくるようになった。専門的な業界なだけに、つい専門用語が多くなり一般の人には分かりづらい表現となってしまいがちの中で、誰もがわかりやすく表現されるおしんさんのライティングが好評だったのだ。まさにネットワークインテングレーター会社時代のお客様対応がここで発揮された瞬間だ。

自分を表現するすことが好きなおしんさん。義時さんと共に五色電機を営み、盛り上げていくことが自分を表現することとも重なっていく。ネジと電線を使ったブロック風玩具「ケブラッチョ」といったアイデアが浮かんだのも、まさにそういった思いがあったからこそだ。

「ケブラッチョ」とはネジと電線を使った、今までにない新しいブロック風トイ。

五色電機株式会社という一つの形は無くなってしまったけれど、そこで培ったものもまた、これからの活動の大きな糧となることは間違いない。

動き続けていけば、失敗なんてない

「あえて言いますけど、私は一度結婚を失敗しています」

おしんさんは、自身の離婚経験のことについても触れてくれた。

「何でもかんでも、失敗を糧にする、という綺麗な言葉で片付けていいとは思っていません。でも、そんな失敗経験があったからこそ今の夫と出会えました。それは本当によかったと思っています」

そんな義時さんへの思いは、五色電機や制御盤業界を盛り上げようとしていたおしんさんの行動からも充分に伝わってくる。

離婚、閉業と、確かについ「失敗だ」と表現してしまいがちだ。しかし、本当にそうなのか? 人生が続いている限り、それらも一つの過程にすぎない。その体験を次に生かせば、純粋なる貴重な体験であり、学びとなる。失敗を生かすも生かさないも自分次第だ。おしんさんは、一般的に「失敗」と言われる事象から、きちんと次の展開を生み出している。

9月の個人事業立ち上げと同時に9月からライター担当としてスバキリ一味に参加したおしんさん。ライティング以外の面で、ここでもその培った才能を早速発揮している。

クラウドファンディングのプロジェクトページに記述する文字を色づけする技を見つけ出したり、ページ作りの流れをフローチャートに落とし込んだりと、一味メンバーへの貢献ぶりは目覚ましい。

そして今、ライティング以外にディレクターへのチャレンジも始まろうとしている。この取材の数日前に、小西さんから「ディレクターをやってくれませんか」と声がかかったのだ。

”閉業”というのは、間違いなく厳しい体験だ。しかし、この経験までを武器とし、おしんさんは、新しい分野でも自分を表現していく場を力強く創りあげていくだろう。

Another history of Oshin-san

おしんさんのエピソードは、本当に枚挙にいとまが無い。

メイド喫茶でのアルバイト、製造業や部品製造に携わる女性たちによるアイドルグループの結成、車のチューニング……。どの話をとっても、もっと突っ込んでお話を聞きたいぐらい。

”圧着あいどる”のコピーと、イラストに思わず吹いてしまう

夫婦の愛車

やりたいと思ったらとにかくやってみる。おしんさんのそんな性格が見事に現れている。なんにしても、あらゆる体験というのは、自らを豊かにし、周りの人への貢献にもつながっていくものなのだと、おしんさんのエピソードを聞きながらそう感じた。

ちなみにメイド喫茶では、お客様たちからは絶大な人気を誇っていたらしい。

メイド喫茶の場所は大阪日本橋という有数の電気街。一歩路地に入ればジャンク屋のような電気専門店も立ち並ぶ。だから、客層のほとんどが電気好き。そんな中で電気の話がわかるメイドさんはまさに天使だった。ただ、一緒に働いていた仲間の女子女子した雰囲気にまったくついていけず、お店は早々に辞めたとのこと。一匹狼にはちょっと無理があったようだ。

取材・執筆:白銀肇