「おはもとん!」
2024年春にスバキリ一味にディレクターとして加入した橋本さんのFacebook投稿は、毎日この言葉から始まる。
「おはよう」と「はしもとん」を組み合わせたこの言葉は、語呂の良さと橋本さんのキャラクターからか、見かけると使ってみたくなる中毒性がある。「はしもとん」は、「はしもと+豚」、覚えやすいし検索しやすいという理由で、かつてブログのタイトルにしていたネーミングだ。
「Facebookではあほキャラを演じてます。計算だと言い張ってますが、みんなに『相変わらずバカだな』って笑って欲しいんです。一種のエンターテイメント(笑)ですね」と橋本さんは言う。
北海道と沖縄、スペイン系フィリピン人のクォーターである橋本さんは、その「濃い」見た目と戦略的な(?)「あほキャラ」が相まって、SNS上ではかなりインパクトのある存在だ。
しかし実際に取材を始めると、根は真面目で、人見知りの一面があることも見えてくる。ときどきおどけながらも、熱意を持って真摯に言葉を紡ぐさまに、多くの人が彼を頼り、相談に乗ってほしいと思うのも納得だ。「橋本さんなら何て言うかな」と聞いてみたくなる、そんな人なのだ。
安定志向が変わるとき
現在、橋本さんが個人事業主として手がける業務は以下のように、とても幅広い。
・クラウドファンディングプロデュース(伴走、制作)
・取材、撮影、執筆、編集
・写真撮影、動画撮影・製作
・プロジェクトファシリテーター、スモールビジネスの壁打ち、ガジェットアドバイザー
・講師業
最近は沖縄でテレビ番組の製作にも関わっているというから驚きだ。
起業家精神に富んだ、「雇われ仕事なんてやってられない」タイプかと思いきや、もともとは独立願望はなく、安定志向が強いタイプだった。
橋本さんは2002年に札幌の工業高校を卒業後、東洋製罐株式会社に入社。中高校時代、ドラムの演奏で注目され、親に音楽の道に進むために進学することも勧められたが、「音楽では食べていけないと思う」と、安定した仕事に就くことを選んだ。埼玉県久喜市にあるペットボトル工場でオペレーターとして働き、「公務員の次に安定している、超ホワイトな」職業生活を送っていた。
そんななか、2006年に橋本さんがブログを書き始めたのは、マイクロソフトが2005年に発売した家庭用ゲーム機、Xbox360を応援するためだった。自身がいいと思うものを多くの人に知ってもらいたい-今で言う「推し活」から始まり、ブログはもう18年以上書き続けている。
お金にもならない、ただ好きだからという理由で続けていた、デジタルガシェットに関する記事を中心としたブログだったが、2011年の東日本大震災で意識が変わった。
「ペットボトル工場は労働環境がとてもよく、さらに考え方が最先端のとてもいい職場でした。でも、3.11をきっかけに『場所に縛られる働き方はリスクだ』と思うようになったんです。工場勤務は安定しているけれど、つぶしがきかないし、工場の外でたとえ戦争が起こっても分からないくらい内容も現場も閉鎖的。そこで表の世界とつながろうと、続けていたブログに本腰を入れ、目的を持って発信するようになりました」
人見知りを自覚しながらも、ブロガーたちとの交流会などにも参加した。2012年の冬ごろ、好きでよく見ていた、ゲーム・iPhone・ガジェットなどを紹介するWebメディアであるAppBank(アップバンク)でライター募集があり、すぐに応募をした。
場所に縛られない働き方を目指しながらも、このときにはフリーランスで働くつもりはなかった。東洋製罐よりも給料は下がるが、会社員として、これまで趣味で続けていたライティングのスキルを活かして働けるのはとても魅力的だった。
売るために書く
2013年にAppBank株式会社に入社し、ライターとしてiPhoneアクセサリーやデジタルガジェット、IoTの紹介を担当することに。単なる情報提供ではなく、製品が必要な人に販売サイトで買ってもらうライティングが求められた。橋本さんはこの経験を通じて「売るために書く」スキルを磨き、商品を魅力的に伝える技術を身につけた。
そして販売サイトで売るかどうかを決める商品会議では、消費者の目線でその価値を見極めることを心掛けた。
「メーカーですら、訴求ポイントを分かってないことが多い。だからこそ、ガジェットの専門家の目線と、消費者の立場の二方向から何が良いかを伝えることが重要だと思ったんです」
製品の魅力を引き出し、消費者に届くように最大限に磨く-橋本さんがプロデュース業をするようになっても大切にしていることは、ライターとして膨大な数の記事を書いたこの時期に磨かれた。
橋本さんがクラウドファンディングという存在を知ったのもこの頃だ。アメリカでのクラウドファンディングで、商品化を目指す面白い商品を見つけてきては、「世界仰天ニュース」という企画で記事にしていた。
当時書いていた記事↓
https://www.appbank.net/2014/03/22/iphone-news/776741.php
今から10年前、日本ではまだまだ一部の人しかクラウドファンディングという存在を知らない頃のことである。
独立するということ
橋本さんがライターとして勤務していた会社は、在籍中に上場を果たすという上り調子のときだった。自分が書いた記事から、売り上げに貢献しているという自負があったが、待遇面で折り合いがつかず、2016年に独立。
何千もの記事を書いてきた実績はあった。持っているスキルをすべてお金に換えようと決意し、取材執筆の他にも、撮影やクラウドファンディングのサポートを始めた。
「でも、もともと独立志向があったわけでもないので、独立1~2年目は、うまくいかないことがあると人のせいにしがちでした」と伏し目がちになる橋本さん。思うように仕事を自分で取ってくることができず、家族がいる生活は苦しくなるばかりだった。
「いったん、安定を取ろうと、ペットボトル工場に復帰することを考えました。ですが、大人の事情で復帰は難しく、では派遣社員として自動車のエンジン生産工場で働きはじめたのですが、過酷な力仕事に腕も指も痛めてしまいました。
身体の悲鳴と昼勤夜勤の連続でメンタルが落ち気味だったことから、もう雇われるのは難しいのだということを悟り、フリーでやっていくしかないのだったら、人のせいにできないと覚悟を決めました」
安定した職を辞したことを、悔やんだこともあっただろう。しかし、挫折を乗り越え、橋本さんは「場所にも組織にも縛られない働き方」を手に入れた。
人を輝かせたくて
フリーランスで仕事を受けるなかで、橋本さんは、自分の性分に気がついた。
「僕自身にやりたいことがない分、人の夢をサポートするのが好き。良いものを持っているのにそれを上手に発信できていない人を見ると、この人を光らせたい!!と思うんです」
支援者の夢を聞き、その夢を実現するためにプロジェクトを練り上げる-クラウドファンディングのプロデュース業は、まさにこの「人を輝かせる」仕事だ。
「もともと発信力や影響力がある人など、自分が関わらなくても支援が集められるなと感じたときは、アドバイスだけ軽くして、お仕事としては受けませんでした。逆に、本人は気付いていないけれど、いい条件がいっぱい揃ってる!という案件はめっちゃ燃えますね」
橋本さんらしいエピソードだ。ダイヤの原石を磨き、世に送り出すことに喜びを感じるーXbox360のよさをみんなに伝えたくて、どう伝わるかを考え、ブログを書きはじめた当時と、根本は今も変わっていない。
ひっぱるのではなく、伴走したい
橋本さんは、自分が得意なのは「伴走」だと言う。自分が先頭に立って0→1を作りだそうとすると、視野が狭くなると感じるのだそうだ。今参画している沖縄のテレビ番組製作でも、チームや放送作家、撮影スタッフ、プロデューサーの意見を聞きながらアイデアを出すという相談役的な役回りが、自分の持ち味を発揮できていると感じている。
「1対多数のライターオンライサロンを運営したことがあったんですが、みんな悩みが一人ひとり違うため、必要なことが違うと感じたんですよね。だから今は個々の相談に応じるかたちにしています。自分のやってきたことをメソッド化するのはなんか違うと思っていて。それぞれの相談事や状況をきっかけに、脳にある無数の引き出しから情報を引っ張り出して、一緒に考えていく感じですね」
人に自分のノウハウを押しつけるのではなく、その人が本当に必要とすることを差し出す-橋本さんが大切にする「目的志向」は、関わることすべてに共通している。
実は橋本さん、現在は勉強会や講演も行っているが、幼い頃から吃音があり、かつては人前で話すことを避け、職場での電話の呼び出し音も恐れていたほどだった。
しかし独立した際、友人が依頼してくれたテンプル大学での講演依頼が転機となり、人前で話すことにもチャレンジするようになった。
リクエストがあり、勉強会や講演をするにつれ、聞いている人の反応が想像以上によく、自分でも意外と得意だと感じるようになった。「話すことが目的ではなく、伝えることが目的」と気づいたときから、緊張せずに話せるようになったのだという。
仕事をするなかで、ともすると忘れがちになる「最終的な目的」。このことを常に意識している橋本さんの姿勢に学ぶことは多い。
競合他社のメンバーになるということ
橋本さんがスバキリ一味に加入したのは、キャンプファイヤー側の担当が、スバキリ商店と同じ人だったご縁から、ディレクターにどうかという誘いがあったからだ。その誘いを受ける決断をした橋本さんだが、そこに少々複雑な思いがあったという。
「スバキリ一味のことは競合他社として知っていました。勢いのある大阪の人たちがいるな、楽しそうにしやがって~って(笑)。でも、自分が今までやってきたことではあるし、小西さんから営業について学べるかも、という思いがありました。案件をさばききれていないのなら、1件でも僕が手伝えたら、自分にもスバキリさん的にも収益になるでしょうし。なのでディレクター見習いになってすぐに勉強会に参加して、小西さんには “案件の取り方教えてください!”ってお願いしました」
潔い人だな、と思う。ここまで素直に気持ちを表現できる人はなかなかいない。
「そうしたら小西さんは、橋本は橋本でじゃんじゃんやってくれたらいいし、挑戦する人を応援する人が増えるのはいいことだって、何度も言ってくれたんですよね。まぁ規模感が全然違うから、僕はスバキリ一味と比べたらゴミみたいなもんですけどね(笑)。小西さんはおおらかで、どうでもいいところはほんと気にしない人ですから、そのあたりは僕の方が女々しいですね(笑)」
そうユニークな表現で謙遜するが、個人でサポートしたプロジェクトの総支援額が1億2,000万円を超えるという橋本さんが持つ豊富な経験と独自の視点は、スバキリ商店に新たな風を吹き込んでくれるだろう。
当初、1時間~1時間半で、と依頼したこの取材。「1時間半で足りるかなぁ?」と始まる前からオーバーする勢い満々だった橋本さん。開始から2時間になろうとするころ、話を収束に向かわせようとすると、「おーちょうど2時間、さすがですねぇ」と言うその声色は、まだまだネタはたくさんあるのだろうと思わせるものだった。
話し好きの人見知り。夢見がちの現実主義。この極端にならないバランスの良さは、多くのメンバーを束ねるスバキリ一味のディレクターにぴったりだと思うのだ。
橋本さんの夢は、なんと自分の葬式としてさいたまスーパーアリーナを貸し切ってフェスをやることなのだという。
きっとそのフェス、おじいちゃんになった小西さんは、(生きていれば)伝説のDJわいざんのイベント「黒夢night!」のときのように、ライトセイバーを振り回して盛り上げてくれるだろうし、おばあちゃんになった蘭鳳さんは、美しい「告別式」の文字を書いてくれるだろう。
そんなイメージがすんなりできてしまう橋本さんは、すでにスバキリ一味のメンバーとして、すっかりなじんでいるということだろう。
取材・執筆 石原智子
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