「皆さんのように、ストーリーとなることや、夢というものが本当に何もなくて……」
と、大木梨香さんは少し困ったような、照れたように笑った。
スバキリ一味には2022年2月からライターとして参加、一味としての日はまだ浅い。でも、大木さんは独立してから6年のキャリアを誇るライターさんだ。
「自分には何もない」
大木さんだけに限らず、そう感じている人は多いのではないだろうか。
自分に何ができるだろう?
得意なものってなんだろう?
人より優れていることってなんだろう?
あれこれ考えるけど、どうもスッキリと見つからない。「これかも?」と思いついたとしても、「そんなことって誰でもできるよね……」なんて言って自らその気持ちについフタをしてしまう。そんな繰り返しのなかで、自分は普通だ、平凡だ、と思い込み、そのまま日々を過ごしていく。だから、自分の夢だってなんなのかちょっとよくわからなくなってしまう。
「サザエさんが好きだったんですよね。普通に平凡な幸せっていうんでしょうかね……、日常の。そういう幸せが感じられたらそれでいいかな、ってずっと思っていました」
ステレオ・タイプな将来しか描いていなかった気がします、と大木さんはポロリとこぼす。
しかし、だ。
平凡だ、と思っている人が、それまでに経験したことがなかったライターという職業で独立し、6年も続くだろうか? 振り返ると、会社勤めしていたときの年数を越えようとしている。
自分では気づかずとも、自分で持っているものをしっかりと発揮しているからこそ、続いているのではないだろうか?
”普通”の幸せを求めて
「東京に行けば、自分のしたいことが見つかるかも」
そう思って東京に出てきたのは、大学入学のとき。山口県防府市で生まれ育ち、小さいころから自らの夢がもてず、何かに憧れる、これがしたい、というものがなかった、という。
「小さい頃から、周り人がいう“夢”っていうものが、本当になかったんですよ。何になりたいの? と問われてもぜんぜん答えられなくて」
そう思い悩むことも多かった。
地元が田舎で何もないから、夢が見つけにくいのかもしれない。東京行きには、大木さんのそんな切なる思いがあった。
しかし、東京での学生生活のなかで、自分の夢となるものに出会えることはなかった。アルバイトで夢中になれるものはあったけども、自分の中に何かが花開く、というところまで行きつくことはなかった。
大学を卒業するときは、いわゆる「氷河期」といわれる時代。とにかく入れるところ、と思って就活し入社したのは保険会社だった。そこで数年働いた後、求人広告会社の営業担当、I T会社の人事部門担当へと転職していく。
保険会社の次に勤めた求人広告会社は、現在では年商470億となっている大手企業。でも、大木さんが転職したときはまだまだ小規模企業で、一人がなんでもこなさなくてはならなかった。担当職は営業。クライアントさんから直接意向を聞き、ライターやデザイナーに伝えていく。そして、出来上がったとものをクライアントさんにフィードバックしブラッシュアアップを重ねていくのが仕事だった。
「いまのスバキリさんでいえば、ライターの執筆以外のところは全部こなしていた、という感じですね」という大木さん。
楽しい一面もあったが、自分の中に業界に対する違和感もあり、やがてその会社を離れる。次に籍を置いたのはITベンチャー企業。求人広告会社で働いていたこともあり、この会社では求人をする側、つまり人事採用担当となった。
↑ ITベンチャー会社時代にいた頃に取材を受けた記事(旧姓である石崎梨香さんの名前で掲載)
採用担当の幅は広く、大木さんは障害のある方の採用も携わった。従業員が一定数以上の企業は、法定雇用率以上に障害者を雇用しなくてはならない義務がある。
採用対象となる障害支援の学校と連携しながら、会社のこと、仕事の内容などの詳しいことについて採用者本人だけでなく、そのご家族にもきっちりと説明し理解を求めていく業務だ。障害を受け入れている家庭もあれば、その逆もまたあった、という。大木さんは、実にさまざまな人間模様を体験した。
そして、IT企業に勤めているときに結婚、しばらく働いていたが、家庭を築いていくことにウェイトを置くため大木さんはIT企業を辞めた。
結婚してから4年後に、第一子の男の子が誕生する。
息子さんは、すくすくと育っていった……かに見えたが、大木さんはあるときから我が子に異変を感じ始めた。
子どもと向き合って、開かれた道
「発語する時期を迎えても、喋らなかったんです」
個人差はあるが、一般的に9ヶ月から10ヶ月過ぎた頃から子どもの発語が始まる、といわれる。しかし、その時期が来ても、我が子は話そうとはしなかった。
息子さんの口から発せられる言葉は、「はーい」だけだった。
「そのときの気分によって“はーい”と話す声のトーンとか違うんです。それで息子の状態を掴みながらコミュニケーションをしていました。サザエさんのイクラちゃんを思ってもらったらわかりやすいかと思います」
「はい」と答える息子の声色、抑揚で、我が子の状態を感じ取るコミュニケーション。この状態が2歳を越えてもなお続いてく。
「まずは3歳まで様子を見ましょう。3歳を越えてもこの調子であったら自閉症とか、そういった病気ということで対処していきましょう」
いよいよ、かかりつけの医者からそう言われる。
頭に“発達障害”という言葉が浮かぶ。その一方で、この状況を大木さんは素直に受け入れる。
自分の子どもをどのように育ていこうか、夫婦で話し合う日々が続く。
このとき、I T企業で採用担当として障害のある方を担当していたときの情報が大きな助けとなった、という大木さん。
「前職の経験もあって、この学校に通わせたい、というところを見つけたんです。でも、学費が高いうえに、子どもの学校活動について親もしっかりと時間も割かなければならないような条件でして……」
学校を通わせるために立ちはだかるふたつのハードル。でも、子どものことを思えば、なんとかこれをクリアしたい。
学費もさることながら、時間ともなると一般的な企業勤めだと状況は厳しい。そう思った大木さんご夫婦が下した決断は、大木さん自身が独立してフリーとして仕事をしていく道であり、選んだ職種がライターだった。
かつて勤めていた求人広告会社では、営業としてクライアントの意向を確認するための取材など数多く経験したこともあった。これがライターを選んだ理由だった。身近でイメージしやすかった。大木さんはただちに行動に移した。
「10ヶ月ほどライティング講座を受けました。その講座が終了する時期には、ありがたいとこにその講座を主催しているところから、ぽつぽつとお仕事をいただくようになったんです」
2016年、こうして大木さんはライターとしての独立の道を歩き始めた。
そして、それは突然やってきた!
子どもを望み通りの学校に通わせたい。その思いを抱きながら、ライター以外にも、自分で興味を持ったもの、できそうな仕事は引き受けていった。そのひとつとして、子ども向けの料理教室というのも始めた。
きっかけは我が子の変化だった。
「とにかく過集中する子だったんです。それが原因で喋らなくなるのかな、と思って集中する機会を減らしていこうと思って、テレビとか見せないようにしたんです」
「テレビ壊れちゃったみたい、とちょっと嘘をついて、たまたまそのときしていた料理のお手伝いをさせてみたんです。“一緒にお料理しよ”っていたら機嫌よく“はーい”と言ってお手伝いし始めたんです」
それから1週間ほどして、預けている保育園の保育士さんから思ってもみなかったことを言われた。
「人との関わり方が変わりましたね。なんかされました?」
一緒に料理をし始めて、息子さんの状態がいい方向に変わっていたのだ。
この子にとっては、これがいい方法なのかもと思い、親子でできる料理教室を探した。が、小さい子どもを連れて通える範囲にそのような教室がまったく見つからない。
「ないなら自分で作ってしまえ」
今度は、料理教室講師の資格が取れるところを探しだす。そこで講師の資格をとり、自分で教室を開いた。子どもの発育にさらに変化があれば、との思いだった。
それまでの人のご縁や、ブログ発信の集客で、料理教室に参加する人は絶えなかった。しかし、その料理教室も、新型コロナウイルス感染症が広がりだした2020年に閉じた。教室自体が“密”となる環境となるからだ。こればかりは止むを得ない状況だ。
それから2年たった今、コロナ禍も少し落ち着いた感もあり、料理教室は再開しないのだろうか、という問いに「それはない」と答える大木さん。さらに、こうつけ加えた。
「料理教室をする必要も、なくなったんですよね」
実は、この間にとても大きな変化が起こっていたのだ。
しかも、それは突然やってきた。
3歳の誕生日が近づいてきたある日、突然息子さんが喋り出したのだ!
しかも、その喋り方は普通ではなかった。
「発語したてのカタコト単語とかではなく、ちゃんとした文章で喋り出したんですよ。それまでは、“はーい”という言葉しか聞いたことがなかったから、これには本当にもうびっくりして……」
なぜ、この日まで喋れなかったのか。
なぜ、この日を境に突然喋り出したのか。
今でもさっぱりわからない、という大木さん。
そんな息子さんは、いま小学校3年生。
「かつてまったく喋らなかった、と他の人に話しをしたら、“嘘でしょ?”と信じてもらえないぐらいにいまではよく喋ります(笑)」
本当にあれこれと心配し悩んだ日々。
でも、その日々を乗り越えて、今につながっている。普通の日常の幸せというものをただ思い描いているだけであれば、“独立”といった大きな転機に踏み込むことはきっとなかった。
「まさか、自分が独立するなんて、思ってもみませんでした」
それもこれもすべて、息子さんの状態を受け入れて、なんとかしていこうと動いた結果だ。
「自分でスケジュール管理としないといけない厳しさはあるとはいえ、組織にいるよりかはこちら(独立)のほうが向いているかな、と思っています(笑)」
息子さんがきっかけとなって、大木さんは自分に向いている道に奇しくも歩むことになった。
少々大袈裟な表現かもしれないが、「こっちだよ」と、まるで息子さんが大木さんに道を導いたようにも感じる。息子さんは、大木さんにとって必要なきっかけをつくり、その役割を果たしたあときちんと自分で元に戻った、そんなふうに見えなくもない。
やっと気づいた好きなこと
「自分に夢がないから、人が目標を持って頑張っている姿を見ると応援したくなる」
でも、それってちょっと人の夢に便乗しているようだけど……、と控えめな言葉を付け加えていた大木さん。
「応援していることが好き」。
頑張っている人への応援が、”その人の気持ちに便乗している”、ということでは決してないだろう。素直に好きで心地がよいのであれば、それはその人が持ち合わせている“得意技”ではないだろうか。実際に、そうやって応援して支えるてくれる人がいるからこそ、応援される人は実力以上のものを発揮することができる。
まさに、人を支えることができる”技”を持った人なのだ。
大木さんは、いまスバキリ一味の仕事以外では、企業と契約をし、コラムやブログ、商品記事などを執筆している。まさに企業の発信を支えるポジションであり、大木さんの応援気質に合致しているからこそ、ライティングもいまもなお続いているのではないだろうか。
さらにいえば、昨年の7月にはライターとし法人設立だって成し遂げている!
「何もない」
……どころか、人を応援する、というまさに自身の本領をしっかりと発揮している。そして、その本領の扉を開くきっかけとなったのが息子さん。とても素敵なストーリーがそこにある。
「フリーになって、本当にいろんな人、いろんな世界に出会えたことで、人ってなんでもできるんだ、と思えるようになりました。そういったこともこれからは息子にも自信を持って伝えられるな、って思います」
これからも大木さんご家族は、素敵なストーリーを紡ぎ続けていくだろう。そして、もちろん大木さん自身も。
「スバキリ一味の仕事は、頑張っている人に寄り添って、チーム一体となって応援していく仕事だから本当に楽しいです!!」
大木さん自身にも素敵なストーリーを紡いでいく白紙のページが、新たにしっかりと付け加わっている。
取材・執筆:白銀肇