「倒れる直前の約束とか、知り合った人とか。記憶がすこし抜けているんです」
2022年2月にくも膜下出血をわずらった望月さんは、兵庫県在住のデザイナーだ。「紙に印刷するものは、ほぼできる」とのことで、ポスターやメニュー、チラシなどが得意。
スバキリ一味でも活動していこうとした矢先に倒れてしまったため、2022年6月に退院してから本格的に一味での仕事を始めた。幸いなことに、身体が動かせなくなるような後遺症は残っていない。
「言葉が出てくるタイミングに、すこし時間がかかっちゃうんです」と前置きをして、ご自身のストーリーを話してくれた。
「美術」への興味は幼少のときから
世の中には「好きなことを仕事にすると、仕事が楽しく、遊ぶように働ける」と主張する人もいる。一方で「お金が稼げるからやっているのであり、特に仕事が好きなわけではない」と割り切っている人もいる。
正解・不正解のない世界ではあるが、情熱を注げる仕事に出会えるのは幸福なことだ。
望月さんの場合は、小さい時からすでに美術への興味があった。
「絵を描くのは幼稚園の時から好きでした。真っ白なノートに、たくさん落書きをしていましたね」
小学校でも美術部に入ろうとしたが、当時は「第1希望は受からない」とのウワサがあったため美術を第2希望にした。「そこで美術部を選んでたら違ったのかな」と過去を懐かしそうに振り返る望月さんが第1希望に書いたのは、バスケットボール部。ところが結果はウワサと違って、第1希望が通ってしまった。
最初は仕方なく始めたものだったが、始めてみたら意外とハマってしまい、高校3年生まで続けた。バスケに集中するため、小学1年生から習っていたバレエを辞めたほどのめりこんだ。やってみないとわからないものである。
ただ、部活をバスケットボールにしたことで、望月さんの美術への興味がなくなったわけではなかった。
やりたいことを諦めた、大学と仕事えらび
高校生で進路を考え始めたとき、望月さんは「大学は、美術を学びたい!」と両親に訴える。ところが、父は許してくれなかった。
「美術系は就職に有利じゃない。高校からつながってる大学にいきなさい!」
親からの言葉の影響力は強い。子どものころなら、なおさらだ。仕方なく、望月さんは美術に関係ない短期大学へ通った。
就職は家から通える証券会社。美術やデザインとは程遠い職種だ。
しかし、ここで望月さんの運命を変えたとも言える出来事が起こった。
「これが私の生きる道?」
当時は、証券会社内に貼る金融商品用のポスターは各支店で手書きだった。貼られていたポスターが「あまりにもひどくて(笑)」望月さんは自分で「ちょっと上手いこと作ろうかなぁ」と作り直したのだ。
すると、このポスターが評判に。商店街の入り口にあった店舗のガラスに貼っていたので「ポスター見てきたよ」というお客さんもたくさん来たのだそうだ。
「美術はそこそこ。そんなにうまくはないけれど、好きだった」と話してくれたが、人並み以上に得意だったのだろう。
自分が作ったポスターで、お客さんが来てくれた。褒めてもらえた。
「誰かに喜んでもらえること」は仕事の醍醐味のひとつだ。それが自分の得意なことや好きなことでできると分かれば、目指すのは自然なことかもしれない。
この経験で、望月さんは「私の進むべき道はこっちなのでは」と考えるようになる。3年勤めて、証券会社を退職した。
手探りでデザイナーを目指して
「どうすればデザイン関連の仕事につけるのだろう?」
望月さんはデザイナーへの道を模索し始めたが、莫大な学費がかかってしまうので、専門学校には行けない。その時、新聞で個人のポップ教室広告を見つけた。スーパーやドン・キホーテなどにあるような「ポップ」を習う学校に通いながら働こう、と決めた。
ポップのイメージ
喫茶店でのアルバイトと並行して週1回、2時間ほど。途中で先生の事情があって休講になった半年間があったが、1年半ほど学校に通った。基本的に手書きで、三角定規や雲形定規を使って作品を作ったのだそう。
ポップ学校で学んだ後、「デザイン関連の仕事をしたい」と同居の親に伝えた。ところが、ここでも再び反対されてしまった。
しかし、今回の望月さんは高校生の時と違って諦めなかった。
「じゃあ、お金貯めて東京に出ていく!」と、自分の意見を貫き通したのである。
両親は若い時に地元を離れて東京へ出ていった経験があったからか、意外なことに2人とも反対しなかった。かなり温厚に見える望月さんが、確固たる意志をもって意見したことも驚きだったかもしれない。
言葉通り、望月さんは上京。貿易事務として働き始める。その傍ら、週1回グラフィックデザインの学校へ通った。
勉強を終えた後、先生にいくつか就職先を紹介してもらったが、どれも落ちてしまった。諦められない望月さんは、公共職業安定所(ハローワーク)へ相談に行き「アシスタント募集」の求人へ応募。見事に合格する。
仕事に没頭した東京時代
アシスタントとはいえ、はじめてデザイン関連の仕事に就くことができた。
ところが作業は基本的にパソコンで行われていて、アナログでこなしてきた望月さんには初めてのことばかりだった。仕事をしながら、パソコンでのデザインの仕方を覚えた。
カタログ、カレンダー、パンフレット、チケット…
1年経ったころには、だいぶ色々な仕事を任されるようになっていた。
「忙しくて徹夜や泊まりになる日がけっこうあった」
「ハードだな……」と感じたものの、先に辞めた先輩にスカウトされるまで、3年間辞めなかった。
さまざまな種類のデザイン・印刷を経験してきた
東京にいる間にデザイン業務を5社経験したが、どれも忙しい会社だらけ。
「2日間の徹夜がザラな会社もありました」とサラッと話すものだから、望月さんはほんわかした見た目とは裏腹に、かなりハードワーカーだったのだろう。
「何でも良いや」と始めた仕事ではなく、自分が焦がれて努力の末にたどり着いた職種だと、つらいときでも踏ん張りがきくものなのかもしれない。
健康食品のパッケージも担当したし、雑誌の取材記事や読者のお悩み相談などのレイアウトなど、ひたすらデザイン関連の仕事に没頭した。
東京から兵庫に戻ってきたのは、父親が認知症を患ってしまい、介護が必要になったからだ。入院してはたまに退院、のくり返し。施設も山奥にあり、通うのも困難な場所だったため、母親に助けを求められて東京を離れることにした。2015年のことだった。
介護ができるように派遣職員という立場を選んだ。誰でも名前を知っているような、大手企業の居酒屋や飲食店のメニューを作り続けた。
月日は流れ、介護していた父親は亡くなり、フリーランスになろうと派遣会社を退職したのが2021年12月。新しいスタートを踏み出した矢先に、くも膜下出血で倒れてしまった。
自分がやりたかったことを、もう一度
「倒れる前にやりたいと思っていたことを、思い出したい」と語る望月さんには、実は明確にやりたいことが2つある。
ひとつは東京にいた時に趣味でやっていた、ガラスフュージングだ。兵庫に戻ってからはしばらくできていなかったが、再び「やってみたい」と思っている。
ガラスが「切ることができる」ものだと知って驚いた
ガラスフュージングでは板ガラスを切ったり、並べたりして、それを高温にした窯の中にいれてお皿や作品を作るそうだ。ガラスフュージングを教える講師のテストはすでに受かっていて、家には作品を仕上げるための電気炉もある。
「3月にガラスフュージングの講座をやろうとしていたんです。でも、倒れちゃったから…。何を教えようとしていたんだろうな、って思い返しています。」
具体的な内容は思い出せないのだが、ガラスフュージングを教えようとしていたことは確かだ。ガラスもまた、小さいころから「好き」なもののひとつだった。
銀座で習っていた先生とは今もつながりがある。先日オンラインのワークショップにも参加して、ライトを作った。
「ガラスって冷たいんですけど、あったかいんですよね」
ガラスの上に載せるものは、料理だったりライトだったり、温かいものが多い。「ガラスの作品を見ていると心が暖かくなることを伝えていきたい」と話してくれた。
今後は自分の作品を販売したり、ガラスフュージングのワークショップなどに挑戦したりしたいのだそう。
もうひとつの挑戦したいことは、HP制作をはじめとしたWebの仕事をしていくこと。印刷物はかなり得意だが、ニーズが少ないこともあり、勉強をしたいのだそうだ。
屋号の「ニッコリーデザイン」に込めた思いは、「お客さんやデザインを見てくれた人がニコニコしてくれるようなデザインを作りたい」という思いから。
何かを強く「やりたい」と思った心の中の火は、小さくなることはあっても、決して完全には消えない。誰かに無理やり消そうと抑え込まれたり、アクシデントがあったとしても、焦らずに薪をくべていったり、適度に風を送ってやったりすれば、また大きくなる。
望月さんの「デザインの仕事をしたい」「ガラスフュージングを仕事にしたい」という火も、親に反対されたり、思わぬ病気にかかったりと、消されそうになったかもしれない。でも、望月さんが「消したくない」と諦めずにいたから、消えずに残ってきたのだ。
そして、望月さんは今、ふたたび自分がやりたかったことに向き合い始めている。
きっとそう遠くない未来に、煌々と輝き、エネルギーにあふれる火を見ることができると信じてやまない。
取材・執筆:上原佳奈