「言葉が持つ力」を、これからも伝え続ける

メンバー紹介

クラウドファンディング・プロデュース集団「スバキリ一味」。

クラウドファンディングのプロジェクト立ち上げをサポートするクリエイト集団だ。

スバキリ商店株式会社、小西光治代表を筆頭に、クライアントさんと一味のつながりを作る営業担当、プロダクトマネージャー、ディレクター、ライター、デザイナー、フォローアップ担当と、実にさまざまな役割を持つ人たち総勢55名で構成されている。

そして、その役割のなかには「パフォーマー」と呼ばれる人たちがいる。

フィットネス芸人担当、猫魔神の異名を持つクレイアートアーティスト担当、作曲家担当、動画クリエイター担当と、その分野は実に多彩である。

クラウドファンディングのプロジェクト制作に直接携わる訳ではないが、スバキリ一味の福利厚生を含め、側面からメンバーを盛り上げ、かつ元気づけてくれる、とても大切な役割を担う人たちだ。

そのパフォーマーに、2022年9月、新しいジャンルとメンバーが加わった。

フリーアナウンサー&ナレーション、青田佳子さんだ。

生粋の兵庫県育ちの青田さん、フリーアナウンサーとしての経歴はなんと30年を誇る。

人が生きていく中で、「言葉」は欠かせない。私たちは「話す」「書く」という手段をもって言葉を使い、コミュニケーションを図り社会生活を送っている。

「言葉を伝えるその話し方ひとつで、それこそ人生も劇的に変わります」

そう語る青田さんの言葉の響きには、普段の生活で何気なく使っている「言葉」がいかに大切なものであり、人生を左右するものでもあるのかを私たちに気づかせてくれる伝道師的な顔をも覗かせる。

転職でアナウンサーに

フリーアナウンサーとしての青田さんの実績は、そのキャリアもさることながら、活動分野の幅がとても広い。

式典、結婚式披露宴、イベント等の司会は2,000件を超え、芦屋市消防出初式などでは20年連続して司会を担当。この他に、法務省イメージ動画、ラジオ、YouTube、CMのナレーション、さらには、国語発声インストラクターとして1000人以上の小学生に指導するなど、その実績には、枚挙に遑(いとま)がないほどだ。

ここまで豊富な実績を目にすると、テレビやラジオ局などといった何かしらのメディアでアナウンサー経験をもった方なのかと思っていた。学生の頃からアナウンサーを目指し、然るべき学校に通い、狭き門をくぐって放送局のアナウンサーとなり、その実績を積んでフリーへ……と、そんな経歴をついイメージしていた。

しかし、青田さんはまったく違っていた。

青田さんのアナウンサー歴は、30代から始まる。しかも、その前の職業は保険会社の会社員だ。つまり、一般企業から転職でフリーアナウンサーとなり、そこから数々の実績を積み上げてきたのだ。

フドラボ

🔺こちらの声の主も青田さん🔺

友人の死を乗り越えて

青田さんは、兵庫県尼崎市で生まれた。小学校から短大までを西宮市、結婚してから芦屋市で過ごし、現在は宝塚市に在住。だから生粋の兵庫県人。小さい頃から話すことが大好きで、大勢の人前でしゃべることも抵抗がまったくない明るい女の子だった。

しかし、中学生となったとき、あることをきっかけに人前でしゃべることができなくなってしまう。

それは、小学校からとても仲が良かった友人の病気と死だった。

「友人の病気は、脳腫瘍でした」

友人の母親は病気のことを伏せていたが、一番親しかった青田さんにだけ病気のことを打ち明けた。

一緒に学校に通い、普段と変わらなかった友人も、やがて時間が経つにつれて様相が変わっていく。顔の表情は緩みだし、目の焦点もだんだん合わなくなる。すでに脳を侵されてしまっている友人は、もちろん自分自身の変化に気がつくことはない。変わり果てていく姿が病魔で蝕まれているからだと知っているのは自分だけ。

やがては友人も学校に来られなくなり、入退院を繰り返すようになる。病院、友人の自宅と、時間の許す限り青田さんは友人の傍に居た。

「その子と一緒にいるときには、緩んでいる口元を笑いながら拭いてあげたり、さりげなく看病をしていましたね」

そんな変わりゆく友人の姿を見るつらさが多感な少女の心に積もっていく。とはいっても、そのつらさを誰かに言うこともできない。迂闊なことさえも言わないようにと意識していたら、いつの間にか昔のように人前で話せなくなっていた。

「だから、中学生の入学式から卒業式までの記憶って、ほとんど残っていないんですよ」

友人と過ごした時間は、記憶をなくしてしまうぐらい青田さんの心に傷を残してしまっていた。

そんな傷を持ちながら高校に進んだ青田さんは、環境が変わったことをきっかけにある決意をする。

「人前で話すことも平気だった頃の自分に戻りたいと思って、『落語愛好同好会』に入ったんです」

小さいときは誰よりも話すことが好きだった青田さん、目線を前に向けて自分を取り戻そうとする。そして、この行動が、その後の青田さんの行く末を決めていく転機ともなる。

落語愛好同好会での出会い

同好会に入ってから、同好会のみんなと阪神電鉄魚崎駅近くにあった小さな小屋の寄席に毎月勉強しにいくのが定例となった。

阪神電鉄 魚崎駅

そんな中で、六代目笑福亭松鶴さんや、桂枝雀さんといった大御所の師匠たちと出会う。そんな師匠たちとの交流は、つらかった青田さんの記憶を少しずつ塗り替えていく。

「大御所の師匠になればなるほど、『よう来た、上がり上がり』って楽屋に呼んでくれては私たちを可愛がってくれました。そこで落語に関するお話をいっぱい聞きましたね」

きっと師匠たちも、古典芸能といえる落語を若い高校生が学びにくることが何よりも嬉しかったのだろう。笑みを残しながら少し遠いものを見る青田さんの表情と声から、心なしかその時の景色が目に浮かぶようだ。

青田さんが一番大好きだった落語家は、桂枝雀師匠だった。

「つらい思いをしていたり、悩みを持っていたり、何百人という寄席にはいろんなお客様がいると思うのですが、枝雀師匠が座布団に座っただけで、どっと笑いが起こるんです。本当にすごいオーラというか、エネルギーをまとっていらっしゃる方だなと思いました」

それにもまして青田さんが惹かれたのが、枝雀師匠の言葉の選び方、間の取り方、だった。

「落語って、言葉で人を笑わせるすべてのスパイスが詰まっている!」

そう実感した青田さんは、枝雀師匠の落語、人としてのあり方にどんどん心酔していった。そのなかで「言葉の仕事をしたいな」という漠然とした思いが心のなかに芽生えていく。ただ、その思いの花を本格的に咲かせるのは、ここからもうしばらく時間を待たなくてはならない。

度胸一点の会社員時代

高校を卒業し短大へと進学。そして、東京海上日動保険株式会社に就職した。東京海上といえば、当時の学生にとって人気No.1。それこそ有名大学でもなかなか内定をもらえない超人気大企業だった。

そんな東京海上に、「『宴会要員』で入れてもらったんです」と笑う青田さん。

いくらなんでもそれは冗談でしょう、と思いきや、まんざら冗談でもないらしい。

「入社試験は、本当に何も答えられなくてもうボロボロだったんです(笑)」

最後の人事面接でも、面接試験官より「かなりひどいね」とわざわざ言われたぐらいひどかった。そんな面接の最後、面接官が一言こう尋ねた。

「最後に、何かできること、言いたいことはありますか?」

すかさず応えた。

「落語をやります!!」

「試験はボロボロやしどうせ受かるはずないやろと思って、最後の最後に落語を一席かましたんです!」と青田さんは笑う。

しかし、この一席で、なんと東京海上より内定を見事に勝ち取った。

「だから、入社して人事部長から『君を宴会要員として雇った』とちゃんと言われました(笑)」

きっと、あの場で落語した度胸を買ってくれたのでしょうね、と笑いながら当時を振り返る。

それもあってだろうか、入社後の配属は、損害部という部門で交通事故示談交渉を担当するなかなかハードな部署だった。なんせ今の時代とは違って、当時は暴対法など法整備が整う前。その筋の方々が、「青田はおるか!?」と大声を張り上げながら事務所にお越しになることも少なくなかったという。

とはいえ、相手の勢いをいちいち恐れて、対応を曖昧にしていては保険金額もどんどん釣り上げられてしまう。それでは保険業としての仕事にならない。そうした勢いのある方々にも怯むことなく、青田さんは日々冷静沈着に対峙していたという。

そちらの度胸も買われてなのか、交渉を繰り返していくうちにその筋の方からも「今度一緒にメシいけへんか?」というお誘いもあったらしい。

「さすがに、そちらだけは丁寧にしっかりとお断りさせていただいていました(笑)」

「確かにこの時は大変でしたけど、はっきりと言葉で伝えることの大切さや、曖昧なことを言っても人は響かない、ということをしっかりと学びましたね」

きっちりと明確に「言葉」を使うこと、使えるようになること。

落語愛好同好会時代で意識したものとはまた少し違う角度で、言葉に対しての思いが青田さんの心に擦り込まれた。

様々な現場での演出も、きっと度胸のひとつ。

「きっと天職」に転職

30歳を過ぎた頃だった。

「自分には何が出来るのだろうか」ということを考え始めるようになり始めた。

「『東京海上』というブランドから離れたとき、自分には何が残るのだろう? 何もないのでは? と真剣に悩みました」

結婚して、子どもも産まれ、いずれは自分として何か確立したスキルを持ってこれからを生きていこうと決め、会社を辞める。

実家が保険代理店をしていたので、そこを手伝いながら自分の進むべき道を探っていた。

「自分は何が出来るのか?」

「何がしたいのか?」

青田さんはずっと自分と向き合った。

繰り返される自問自答のなかから出てきたのは、高校生のころから育んでいた言葉に対する思い、そして桂枝雀師匠の、

どんなことがあっても言葉の力で人を笑顔にすることができる

という言葉だった。

「言葉を人に伝えることを仕事としたい」

その思いに再び立ち返った青田さんは、イベントや結婚式場などの各種司会やナレーションを手掛ける事務所の門を叩く。

しかし、司会業では、花形といわれる年齢が20代後半から30代半ばといわれている。それから比べると少し遅いスタートだ。

「だから、年齢が30過ぎいてた私は、使い物にならないだろうとは思われていたみたいです」と青田さんは語る。

当時住んでいた自宅から、事務所までは通うには遠かったこと、小さな子どももいたことから、自宅に近い芦屋に事務所とつながりのある人が営んでいる養成所に行くように勧められた。

「なんかちょっと出向を受けた感じでしたね……。でも、実はこれがとても大きな転機になったんです」

そこは単なる司会の養成ではなかった。

養成所に来る人たちは、元局アナや、ラジオのパーソナリティなどといった面々であり、本格的にアナウンス技術を学ぶ養成所だったのだ。

そこで、青田さんはしっかりとアナウンス技術を叩き込むこととなり、青田さんのその後にとってとても大きな武器となった。

使い物にならないだろうと思われていた青田さん。あるとき、事務所の社長が青田さんのスキルを目にした瞬間に、その認識を一変させた。青田さんの実力をすぐに認め、司会やナレーションといった仕事を次々と振っていった。こうして青田さんは数々の実績を残していくスタートラインに立つことになる。

「司会とアナウンスって、実はまったく違うんです」と青田さんは語る。

「司会は抑揚もなく平坦なのですが、アナウンスはしっかりと感情、抑揚をつけていくので、まったく別物なのです」

20180606青田佳子サンプルボイス

🔺多彩な言葉を表現するのがアナウンス・スキル🔺

人前でしゃべるという点で、同じものとつい見てしまうが、技術のレベルがまったく違う。もし、最初の段階でこの養成所との出会いもなく、普通に司会業からスタートしていたら、アナウンサーとしての青田さんはいなかったかもしれない。

「言葉を伝える魅力」をさらに広げたい

青田さんがスバキリ一味に加わったのはつい最近ではあるが、社長である小西さんとの出会いは、実は古い。出会いのきっかけは、青田さんも小西さんも、グループは違うが同じビジネス交流会メンバーであったことから。ちなみにその頃の小西さんは、クラウドファンディング・プロデューサーとなる前の「素晴らしい切り絵作家」だった。

2022年に入って、青田さんの知り合いが、スバキリ一味でクラウドファンディングをしたことをきっかけに小西さんと再会を果たす。そこで、スバキリ一味として動画を制作していることを知り、動画ナレーションを手伝うかたちで一味メンバーとして加わった。

いま司会の仕事はセーブしつつある青田さんだが、ナレーションの仕事、そして何よりもアナウンスメント技術を色々な人に伝えていくことは、体が動く限りやり続けていきたいという。

「言葉の伝え方で本当に人生も人も変わります。しゃべるお仕事でないとしても、ビジネスされている方にとっては、学んで絶対損はありません」

最近では、弁護士の方にもその技術を伝えているという。その他にも、毎月一回アナウンスメント技術の体験会も開催している。

アナウンス技術を多くの方に伝えている

この体験会を一度だけ受けた就活女子大生は、いきなり連続で5社の内定をもらったという。実は体験会を受ける前まで彼女は、連続して19社も落ち続けており「就職浪人を覚悟していた」と口にしていたほどだった。

「それだけに、その子から『本当に人生が変わりました!』と喜びの連絡をもらったときは、涙が出るほど嬉しかったです」

「言葉の伝え方」と真剣に向き合っている青田さんの思いが伝わってくる。

中学生の時には、人前で話すことすらままならなくなってしまったつらい経験があった。でもその経験があったらからこそ、落語という言葉の芸術と落語家さんたちとの出会いにもつながり、その軌跡が、言葉を伝えることの「奥深さ」と言葉が持つ「力」を、青田さんにより印象づけたように思える。

言霊(ことだま)」という言葉がある。

言葉は、その人の想いから必ず生み出される。その想いは感情のエネルギーでもある。発せられる言葉には、そのエネルギーが自ずと込められてくる。さらに「話し言葉」には、声色、抑揚、顔の表情、と縦横無尽の表現が加わる。だから、言葉は「魂」を体現したものでもある。その魂の伝え方を学び自然と使いこなすことで、相手の態度も行動も変わり、目の前の景色が自分にとって「いいように」変わっていく。だから、言葉にはとても大きな「力」がある。そのことを青田さんは伝えていこうと、さらに精力的に活動を続けている。

言葉の使い方で人生が変わる

青田さんのこの言葉が、あらためて心の中まで透き通るように響いてくる。

Another Story ーここから、すべてが始まったー

阪神電鉄魚崎駅近くの小さな寄席小屋。

青田さんがいつものように落語の勉強をしにいったとき、舞台の座布団や題目をせっせと変えている若手の落語家さんがいた。

写真はイメージ

初めて会った人でもあったので、青田さんはその落語家さんに「サインください」と声をかける。

「いやいや、そんなんオレ、サインなんて今までしたことないでー」

と照れくさそうに言いながらもぎこちなくサインをしてくれた。

寄席からの帰り、方向が一緒ということで、その落語家さんと同じ電車に乗る。帰りの電車の中でずっと話をしていた。

「その若手の落語家さんが、明石家さんまさんだったんです」

その1年後ぐらいから、明石家さんまさんはテレビによく出るようになり、ご周知の通り国民的お笑い芸人へと君臨していくことになる。

「帰りの阪神電車の中では、今のテレビでも見られる通りで、もうずーっと一人でしゃべりっぱなしでした(笑)」

明石家さんまさんとの車内の会話は、どれだけ賑やかだったのだろう?

その明石家さんまさんも、ある日何かのテレビ番組で、「自分の舞台デビューは、阪神電鉄魚崎駅近くの小さな寄席小屋やった」と語っていたらしい。

大御所芸人の人生の系譜にも、青田さんとの出会いが少し関わっていそうだ。

何よりも、「言葉を伝える仕事をしてみたい」という青田さんの思いも、同じようにここから始まっている。

取材・執筆:白銀肇