常識や慣習に縛られない、自由な表現ができる世界を

メンバー紹介

「デザイナー」と聞いた時に、どういう仕事をイメージするだろうか?

「感性」が大事な仕事だと思われがちな仕事だが、よらさんいわく「アートは自分の何かをぶつければ良いと思うんですけど、デザインは商業的なものにすごく結びついているもの。相手にとって分かりやすいものじゃないといけないし、僕はシンプルなものが好き」なのだそう。

「デザインは全部に理由があるはず。こんな理由があるから、ココにこれを置いている、と言葉で説明できるものだと思う」と語る内容は、非常にロジカルだ。

赤い服に黒ベスト。趣味はゲームに漫画・ワイン・エビデンス。口元のおヒゲが特徴的な「よら」さんこと水野嘉彦さんは、スバキリ一味の外部顧問的な存在で、アートディレクターとして一味を支えてくれているデザイナーだ。

アートディレクターとは、一言でいうと「サムネイルのクオリティを担保するような役割」のこと。デザイナーからサムネイル画像の案が上がってきた時に、キャッチコピーの修正案を出したり、文字の配置の仕方をアドバイスしたりと、すべてのプロジェクトに関わる。アニメーションの制作進行や、店舗の広告、Web制作の仕事など、幅広くデザインに関わってきた経験や知識を活かした仕事だ。

茶目っ気があって、周りの人が思わずクスッとしてしまうような発信を、楽しそうにしている印象の強いよらさん。しかし、話を聞いてみるとハードな下積みとも言える経験が満載なのだった。

研究職を目指すも…

仕事のやりがい・給与・休み。このバランスが取れた自分の「適職」や、「天職」に巡りあうのは簡単なことではない。よらさんも、最初に目指していたのは今の仕事ではなかった。

高校2年の頃、空手の稽古で肉離れをおこしているのに無理やり海に遊びに行った時の写真

よらさんは愛知県生まれ。両親との仲は良好だったが、兄が家の中で暴れているのが日常茶飯事の家庭だった。家の窓ガラスが割れていたり、壁に穴が空いていたり、家電が壊されたり…。よらさん自身が標的にされることも多かったので、両親と相談のもと高校2年生にして一人暮らしをはじめた。

やや特殊な家庭環境だったとはいえ、よらさんは我が道を進んでゆく。「高校で生物の授業が楽しかった」から、知的好奇心の赴くままに大学は東海大学開発工学部生物工学科へ入学。研究職に就こうと、大学院まで進んだ。研究の合間に仲間たちと遊んだオンラインゲームのおかげで、パソコン操作もどんどん覚えていった。タイピングも早くなり、のちのちWebで仕事をするハードルを下げたという。

大学時代に朝まで飲んだ後、富士山に登りにいった時の写真。
「この後雷が荒ぶる富士山で死を覚悟しました。」byよらさん

卒業後は、花王やソフィーナなどの研究職を志すも叶わず。背に腹は変えられない状況の中で「いとこが働く東京のアニメ制作会社で拾ってもらった」という。

見えてきた「自分のやりたいこと」

制作ディレクターの仕事に就いたが、そこはかなりの激務だった。職場の床で寝て帰れない日が続く。

タイムカードを押して、退勤までに数日経っているようなこともある職場だった

人は育った家庭環境で大きく影響を受ける。
「自分も、両親のように仲良し夫婦になりたいな」と憧れるケースもあれば、手に入らなかったものを求めるケースもあるだろう。

よらさんの場合は「温かい家庭」、「フツウのまともな家庭」に憧れていた。

手取りは15万円、出会いもなければ疲弊していくばかり。「このままだとヤバイ」と悟ったよら青年は、転職を決意する。

そこで浮かんできた業界が「デザイン」だった。
研究室にいたころから、プレゼン資料のアニメーション作りにどハマりするなど、好きな分野だったのである。

ところが、興味は持てども経験も知識もない。働きながらデザインを学ぼうと考えて、土木系の雑誌を作る代理店へ営業として転職するも、腰のヘルニアを発症してしまう。

当たり前は、いつ崩れるかわからない

地元の愛知で手術をすることになり、仕事も、住む場所も失った。兄のいる実家にも帰れないので、友達の家を転々とするしかなかった。

自分が持っていたものを失った時に、ハッとするような気づきがある事は少なくない。

よらさんはヘルニアがキッカケで「人生、急に仕事や住む場所を失うんだな」と痛感した。そして「いま楽しいと思うことや、興味があることをやらないと、人生終わる」と考え、デザイナーとしてやっていくことを決意したのである。

手術後に動けるようになってからは、スクールに通ってツールの使い方を覚えた。26歳の時に、念願のデザイナーの職につくことができた。

名古屋でデザイン会社だと思って就職したら風俗店経営会社だった頃。
女の子のほくろを消したり、顔にモザイクを入れたりしていた

朝10時から働いて定時が22時だったりと、労働環境が良いとは言えない会社だったが、Webの基礎知識や印刷のスキルなど、いまの礎になるような下積みをしたのだという。

東日本大震災で感じた人生の有限

2011年3月11日。名古屋でも長い揺れを感じた。
日本中を震撼させた東日本大震災である。

「自分にできることはないだろうか?」と考えたよらさんは、『DESIGN FOR JAPAN』というプロジェクトに出合う。その時の自分にできる「デザイン」で人々に節電を呼びかけたそうだ。

ポスターのデザインを提供したのは本震から2日後

東北には知人もいて「死」をそれまでより身近に感じたし、人生についても考えさせられた。「自分がやりたいこと」を選ぶべきなのだと、ヘルニアを経て表出した価値観が、震災を通してさらに強くなる。人生は有限であり、自分の道は自分で選んでいきたいと思った。

だから、大学時代の友人から起業の話があった時も「面白そうだ」という自分の心に従った。2011年、30歳で会社を辞めて、縁もゆかりもない大阪に移住。ついて来てくれた彼女と結婚もした。

ところが、スタートアップの会社もまた、苦しいものだった。役員報酬は月に8万円。生活費を稼ぐべく、会社から帰ってきてからも自分で取ってきた仕事をこなした。身を粉にして努力を続けていたものの、妻ともすれ違い、2年で離婚。

会社は6年経っても大きな成長が見込めず、話し合った結果、解散した。
解散する際、何社かのクライアントはそのまま引き継いでフリーランスとなったが、「暇人生活」と感じるほどの仕事量だったそうだ。

「遊び心」がブランディングへ

よらさんがトレードマークである赤い服を着始めたのは、2017年のこと。きっかけはキングコングの西野さんの書籍「革命のファンファーレ」の表紙である。西野さんが赤い壁に赤いシャツを着ている表紙なのだが、赤い壁を見つけて「遊びたい」と思ったよらさんは即刻赤い服をアマゾンで購入。パロディを自作した。

「この人はこのキャラクター」と認知してもらうための
セルフブランディングの一環で、赤いシャツを着るようになった
よらさんのクローゼット。週7で赤い服を着ている

「蝶ネクタイをして一生懸命切り絵をしている小西さん」に出会ったのもこの頃だ。イベントスペースである黒門カルチャーファクトリー(通称:黒門)にお客さんとして関わるようになり、山下さんとも出会っている。黒門は「売れないアーティストの発表会で、みんながそれを拒否しないで受け入れているのが”面白いなぁ”と思った」のだそうだ。お手伝いをしていくうちに、黒門の運営代表になり、2021年には事業的にも引き継ぐことになった。

楽しさと新しい価値を追い求めて

よらさんは「楽しい」と思えることを大事にしている。そして、慣習や常識に縛られることを嫌う。

今の妻との初めてのデートでは「めちゃくちゃビールを飲んでいた」のを見てとても楽しくなり、お付き合いするに至ったのだとか。妻は自立した人で「結婚したらこうしなければならない、みたいな常識とかがお互い嫌い」。今もお互いの収入は知らないそうだ。

「古い慣習とか昔のやり方で止まっている状態が嫌い」で、「印刷・FAX・電話、とか新しい技術があるのに、いかない(活用しない)のが嫌い」と語るよらさん。「今までのやり方を、視点を変えて壊したり、提案したりするのがおもしろいし、楽しい。”働くって今までこういうことだったけれど、本当にそうなのかな?”って考えたり」

色んなパターンを思考することに楽しさを覚えるあたり、研究者っぽさが垣間見える。
常識や過去に縛られない自由さ・新たな発見や進化を愛しているのだ。

何にもとらわれないからこそ、ひと味違った目を引く提案ができる。

よらさんは仕事がうまく行かなかった時から、その時々の「楽しい」「自分がやりたいと思えること」をヒントに、試行錯誤を辞めなかった。何度も種をまいては、コツコツと自分の力を育ててきたのだ。
結果として、少しずつ仕事は増えていき、今はむしろ時間の足りなさが悩みだ。

先日リリースした黒門のバーチャルショップ

2022年10月現在、よらさんの仕事は黒門の運営:WEB関連の仕事:スバキリで4:4:2くらいだそうだ。WEB関連の仕事ではHPの管理や制作のほか「モルック」という競技のアプリ開発にも携わり、毎週木曜日には、小西さんと一緒に「ビジネスを一歩進める交流会」もおこなっている。

「感情が動く時に、商品が生まれる」という思いで、楽しい気持ちや周りをくすっとさせられるような物を作っている。山下さんのランディングページも手掛けた。

「もしも〇〇だったら」という世界線で展開されるLP。
「組織の者B」として自分も登場しちゃうよらさん

今の仕事が忙しくても、よらさんは止まらない。「今後は、違うカタチのサービスを他業種と組んで作っていきたい」と、目を輝かせて話してくれた。

自分のやりたいことに挑戦している人は、生き生きとしているし、周りにもパワーを与えるものである。

「当たり前は、当たり前でないこと」
「人生は有限であること」

日々に忙殺されると、たまに見失ってしまうことかもしれない。
けれど、今の日常が続く保証はどこにもないし、人生は、いつか終わる。

後悔が残らない人生のためにも「自分の心に正直であること」は忘れないようにしたいと、改めて思った。

〜オマケ・よらさんから見るスバキリ一味〜

自由や進化を愛するよらさんに、スバキリ一味がどう映るのかを聞いてみた。

「組織の形としてすごく理想形。そういう形を僕も作りたいなと思っています。
僕は組織の形として”縛られるのが嫌”で、”全員一枚岩だ”みたいなのが苦手なので。それぞれが、それぞれの責任のもと独立して、ある目的のために集まってるっていうような状態が凄く気持ち良くて。けっこう理想的で、目指してる組織です。素敵だなと思っています。」

ちなみに、団長である小西さんについても聞いてみた。

「小西さんがすごいのは、本当にできないってこと・できることがハッキリしているというか。本当に『まじで関わらないでください』って分野があって。そうすることで他の人たちみんな頑張るというか。理想的な社長だなあと思って(笑)でもちゃんと仕事は取ってくるし、人に任せたことには口出さないっていうのが、もうほんと理想的な感じで。『ああはなれないけれど、すごいな』と思う。」

あんまり面と向かって言われることは少ないかもしれないので、載せておきましたよ、団長!

よらさんのWebサービス
ナニモノリンク
https://nanimono.link/

よらさんプロフィール
https://yoranote.com/about/

取材・執筆ー上原佳奈(かなっぺ)

https://note.com/tokitaka65/n/n972813ca2351