直感を活かして、遊びながら働く

メンバー紹介

スバキリ一味のメンバーには、共通点がある。

1つは、いわゆる”フツウ”や”常識”にとらわれずに色々な経験・仕事をする人が多いことだ。キャリアもさまざま。団長の小西さんだって3,4年前は「すばらしいきり絵作家」だったし、”複業”をしている人も珍しくない。

もう1つは、”キラキラしてる人”が多いこと。やや抽象的かもしれないが、自分の人生や働くことを楽しんでる人だらけなのだ。

そんな中でも宮嵜さんは、一際目立つ「色々できすぎマン」であり「全力で人生を楽しんでいる、超エネルギッシュ紳士」であることが、今回の取材で判明した。

はじめはプログラマー、そして仲間内で起こした会社では、HP作成、マーケティング、広告運用、ライティング、総務経理など多岐にわたる業務を担当したそうだ。

「今もやりたいことが多すぎて…自分があと3人くらいいたら良いのにって思ってます(笑)」
と話す宮嵜さんは取材中の約100分間、ほぼノンストップ。

写真から受ける優しそうな印象はそのままに、すこし九州訛りのあるイントネーションはひたすらエネルギーにあふれている。画面越しの取材でも圧倒的に「楽しい」が伝わってくる宮嵜さんという人は、どうやって出来上がったのかを紐解いてみた。

寝ても覚めても「プログラミング」の学生時代

熊本生まれ、熊本育ち。地元はスイカの名産地である植木町。

「名前は”みやざき”なんですけどね、ややこしいでしょ」と笑う宮嵜さん。「ビル街よりも自然がそばにある環境が合ってて」と、生まれてからずっと熊本を拠点にしている。

人生で最初にどっぷりハマったのは、プログラミングだった。

「分解したりとか作ったりするのが好きだったんですよ。ラジコンとか、時計とか…『どうやってできてるんだろう?』って。将来は研究者とか科学者になりたいと思ってました」

Windowsのように統一されたOSはまだなく、NECを筆頭に富士通やシャープといったメーカーが、各々でパソコンを出していた時代である(パソコンはマイコンと呼ばれていたそうだ)。

親に頼み込み、小学3年生で念願叶ってNECのパソコンが家に来た。

実際にまだ実家にある初めてのパソコン

独学でプログラムを学び、作り続ける日々が始まる。

「当時はパソコン用の雑誌が出てたんですよ。『マイコン BASIC マガジン』とか『バックアップ活用テクニック』とか。読者が作ったプログラムも一部掲載されてたんです。」

愛読書だった「マイコンBASICマガジン」
実家にとってある実物の写真

平日は部活が終わってから。土日は朝から晩まで毎日プログラムに浸かった。

「当時ってパソコンにいろんな機種があるんだけど、自分の機種だと言語が違ったら動かない、とかあったんです。だから”移植”と言って翻訳・変換みたいな作業をその度に行うわけです。

ゲームが簡単にできる時代じゃなかったし、没頭しましたね」

とにかく早く動かしたい一心で、ひたすら雑誌を読んではコードを打ち込み、移植を試みてプログラムを動かす。中学・高校では部活に入らず、引き続きパソコンや雑誌と向き合い続けた。

そして高校2年生の時、自作のプログラムが雑誌に初めて掲載された。「今で言うアバターみたいな、ゲームのキャラクターを書き換えるツール」だったそうだ。その後も相変わらずプログラミング一筋で、専門学校も迷わず情報処理の学科に入った。

高校入学のお祝いで買ってもらったパソコン。未だに持っている

宮嵜さんの熱意はもちろんだが、子どもの興味・関心をないがしろにせずに「やりたいこと」を尊重したご両親の教育も素晴らしい。子どもの人生に、自身の価値観を押し付けたがる親は少なくないからだ。今も昔も「こんなことはさせない」「将来はこういう仕事に就かせる」といった教育をする人は存在する。

何が正解かは人それぞれだが、一番身近な存在である親から肯定してもらえることは、どんな子どもにとっても自信につながるのではないか。

結果として、宮嵜さんは自分の好奇心に素直に、伸び伸びと成長していった。

磨かれたのは「直感力」

「1万時間の法則」という言葉がある。ざっくり言えば、人は何かを習得するのに1万時間の練習が必要だという説だ。1日3時間であれば約9年間、1日8時間であれば約3年半、それぞれかかる計算となる。

宮嵜さんは、小学校3年生のころからひたすらプログラムに打ち込み続けた。

「ず〜っとやってたから。一定の量を超えたんでしょうね」

高校を過ぎた頃からか、直感やイメージといった「感覚」が降りてくるようになったそうだ。

「僕の一番の強みというか、答えを導き出すための方法にたどり着くのが得意なんですよね。知らない分野でも、ゴールへのたどり着き方を見つけるのが得意なんです。」

プログラミングする時も、先に「こういう物を作りたい」というイメージがあって、そこから逆算して必要な箇所を作っていたそうだ。

「プログラマーにあるまじき感覚派というか(笑)”コードの旋律が聞こえてくる”、じゃないけれど、変な作り方だったかもしれません」

このひらめきは、ビジネスでも活躍しているという。

「AとBの仕事があったときに、『こういう接点がありそう』とか 『くっつけたら新しい仕事にならないかな?』って思いつくんですよね。

どうやったら解決できるかな?っていうのが降りてくるんです」

膨大な試行錯誤によってできるようになった”それ”を「直感」とくくって良いのかは分からないが、1つのことにのめり込むことで、宮嵜さんは確かな能力を身につけたのである。

「何かに夢中になる」ことで、人は必ず得るものがあるのだ。

プログラマーからIT全般の人へ

専門学校卒業後は、通信建設会社の「電算室」、今で言うIT部門のような部署にプログラマーとして就職した。

「大きな会社じゃなかったので、一人で設計〜開発〜保守とやってましたし、プログラム開発以外も色々やりました。

ソフトだけじゃなくてハード関連もですね。パソコンの組立とか、HUBを選んで設置したりとか、ルーターとかサーバーを作ったりとか…。」

それぞれ専任の人がいてしかるべき仕事の数々。関連する分野であったとはいえ、膨大な知識量が必要だったはずである。

しばらく仕事の内容はプログラミング関連だったが、宮嵜さんの仕事の幅はその後さらに拡がっていく。

2003年、前職のメンバーと共にITベンチャー企業を立ち上げ、その会社で17年間働いた。

「前の会社で、僕がやってないのは社長だけ」
と振り返るほど、やってきた仕事は多岐に渡る。

「役員、総務経理もやりながら営業システムを作って、HP作って、サポートして、社内のシステム管理して… デザインもしてました。今考えると『ようやったなぁ』って思う」

これも持ち前の「直感力」で人より習得が早かったのかもしれないが、それにしてもすさまじいバイタリティである。

文章ギライが一転、ライティングコーチに

「正直文章ってキライだったんです。昔は国語が一番キライな科目でした」
と話す宮嵜さんだが、2006年から会社の業務でWEBマーケティングに携わるようになった。それからメルマガやDMを書いたり、見よう見まねでLP制作をしたりしていたそうだ。

ライティングを本格的に学び始めたのは、2016年のこと。

著名なコピーライター、神田昌典さんの会社の中で開催されたライティング講座が目に留まったという。

「なんか、これはきっと必要だ!」
といつもの直感に従い、熊本から東京まで受けに行くことを決断。

文章が嫌いだったという講師に共感するところもあり、「学べば書けるようになるんだ!」という感動があった。

講座を受けた初日には、講師の中野巧さんに
「エンパシーライティングのコーチになりたいです!なんとかなりませんか?」
と直談判。

当時コーチの養成講座はまだなかったものの、その翌年には認定コーチになった。

「その時学んだ知識は、LPやセールスレター、広告運用などでめちゃくちゃ役に立ちましたし、今にも繋がっています」
というのだから、人生分からないものである。

生きていれば環境も変わるし、自分の感性も変わっていく。過去にキライだったことやニガテだったことを、一生遠ざけておくのはもったいないかもしれない。

一味に入ったワケ

ところで、宮嵜さんが一味入りしたキッカケは何だったのかを聞いてみた。

「前々から、周りの人がクラウドファンディングをするのを助けたかったんです。ライティングはできるけれど、仕組みがまだ分からないな、と思っていたので。

ちょうど小西さんのライター募集投稿がその時あって。『クラウドファンディングを仕事にしたい方にも』ってキーワードひとつで応募しました。まずは知ることが大事だなと思って。

クラウドファンディングについても学びながら仕事ができるので、最高に良い場所だと思います!」

ちなみに、小西さんとは交流会で一度会っていただけ。Facebookで繋がっていたのだそうだ。

「僕は運が強いんですよね。運と縁だけで生きてる」

とはいえ、運やご縁はたとえ目の前に現れても、それをモノにするための行動がないと手に入らない。だから「運をつかんだ、ご縁があった」という人は、その分行動してきた証なのだと思う。

「楽しい」ほうへ

2021年からは自分で会社を立ち上げ、HPやLP制作、ライティング講座やセミナー、ITコンサルを行っている宮嵜さん。「熊本県よろず支援拠点」ではITに強い専門家として毎月セミナーを行っているほか、熊本の経営者がつながる場・勉強会の場作りにも携わっているそうだ。

セミナーやワークショップを毎月のように行っている

4月からは、熊本の食品をPRする協会にも入るし、母校の専門学校から非常勤講師としても声がかかっている。さらに、教育事業としてオフラインコミュニティの運営も考えているという。

話を聞く限り、尋常じゃない仕事や取り組みの幅にも関わらず、宮嵜さんからは「楽しいオーラ」が止まらない。過去も今も、未来にやりたいことも、何を話している時もキラッキラしているのだ。

「人生をうまく行かせるコツというか、楽しむコツってありますか?マイルールみたいなものはありますか?」と尋ねてみた。

「基本は”楽しむ”がキーワードなんだけれど。楽しめることを探すんです。『どうやったら楽しいかな?』って。

例えば、プログラミングでも『暗くやらない』。一人でもくもくとコードを書くイメージが強いかもしれませんが、僕は同僚たちと時にはふざけながら、楽しみながらやっていました。どれだけ遊んでるように見えても、やることをやれば誰にも文句は言われません。

楽しんでできたら、苦じゃないですよね。だから基本は「楽しく」みんな仕事しようね、っていうスタンスです。」

「ただ生きるため”だけ”の仕事をやってるのは、楽しくないと思います。

僕のなかでは、仕事って”新しい”を生み出したり、与えたり、があるのが楽しいからやってるんですよね。仕事と遊びの境目があんまりないというか。仕事も人生の中の遊びの延長線上でしかない。

今日は何をしようかな、楽しいな、って思ってます。」

仕事との向き合い方は人それぞれだが、宮嵜さんの働き方・生き方に憧れる人は少なくないのではないか。いきなり『遊ぶように働く人』にはなれなくとも、そういった人が存在するのだと知ることで、目指す人生の幅も広がるはずだ。

能動的に自分で仕事を「楽しいものにしていく」こと、直感を大事にしてみること、あたりは比較的チャレンジできそうな視点ではなかろうか。

「一人でもくもくと働くようなことは若い時に経験したので、今後は”みんなで楽しく”をテーマに動いていきたいですね。2023年からいろんな役割が増えてきたので」

と楽しげに展望を語る宮嵜さん。

その生き方、人生観にふれてみて
「ちょっとそのバイタリティにあやかりたい」と思うのは、私だけではないはずだ。

取材・執筆ー上原佳奈